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露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ(他の露土戦争については、露土戦争を参照〔オスマン帝国とロシアの間の戦争はしばしば起こっているが、狭義の露土戦争はこの戦争のことをいう。『世界史を読む事典』(1994)p.117〕)。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった〔『世界史を読む事典』(1994)p.117〕。ロシア帝国の勝利で終わった。 ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争 (Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。 ==開戦までの経緯== 1875年に発生したを支援するため、1876年、セルビアとモンテネグロはオスマン帝国に対し、宣戦を布告した。しかし両国はオスマン軍によって大きな打撃を受けて休戦を余儀なくされたうえ、同時期に起こったブルガリアにおける反オスマン反乱であるも鎮圧された。このとき、4万人におよぶブルガリア人がオスマン帝国の軍民により虐殺され、この大虐殺の詳細が明らかになるにつれヨーロッパ諸国では衝撃が走った。オスマン帝国はイギリスの支援を得られなくなり、単独でロシアにあたらざるをえなくなった。 1876年6月28日から7月8日にかけて、ロシアとオーストリア=ハンガリー帝国は秘密協定、を締結し、ロシアがベッサラビア及びコーカサス戦争で獲得していたコーカサスを、オーストリア・ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを獲得することを条件に、オーストリア・ハンガリーが中立を維持することを取り付けた。さらに、これらバルカン半島における諸紛争を収拾するための国際会議が1876年12月からオスマン帝国の首都イスタンブルで開かれたが、翌年1月には物別れに終わり、ロシアはスラブ民族の救済を名目に戦争への介入を決意した〔永田(1988)pp.407-408〕。 戦争を始めるにあたり、ロシアは1850年代に起こったクリミア戦争での苦い敗北の経験もあって、汎スラヴ主義的心情に訴えるべくバルカン半島のスラブ民族独立のための戦争であると宣伝した。しかし、その背後には地中海への通路を確保しようとするロシアの意図があり、不凍港獲得を目指す南下政策の一環としての側面を持った戦争でもあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「露土戦争 (1877年-1878年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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